東浩紀『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(3) 

本書では、「否定神学」という言葉をどういう意味で使っているのだろう。
定義は以下のようなところに一つ、表されているみたい。
 


 

ゲーデル的脱構築とデリダ的脱構築の差異について考えるためには、否定神学に対するデリダの関係から見るのがよい。すでに六〇年代からデリダは、彼自身が提示したさまざまな逆説的観念、例えば「差延」がきわめて否定神学的に見えることを十分自覚していた。ただしここで「否定神学」とは、肯定的=実証的な言語表現では決して捉えられない、裏返せば否定的な表現を介してのみ捉えることができる何らかの存在がある、少なくともその存在を想定することが世界認識に不可欠だとする、神秘的思考一般を広く指している(デリダ自身がそのような広い意味で使っている)。


否定神学とは、「神秘的思考」であるという内容が含まれている。
日本人としては、日常的感覚で受け止められる話だ。
しかし、国際的に見たら、このあたりも、いくらか怪しいところのある文章ではないか。

ラカンにとって「不可能なもの」は単数、ひとつである。だからこそ、フロイトもポーも自分も同じ「不可能なもの」に直面することができる。そしてその同じ「不可能なもの」についての認識は、ソフォクレスやソクラテスから、さまざまな思想家を通過しラカンへと配達されてくる。彼の行う歴史の再構成=抹消は、理想的な郵便制度によるこの保証に依存しているのだ。他方デリダにとって「不可能なもの」とは複数であり、決してひとつではない。それゆえ自分とフロイトが同じ「不可能なもの」に直面する保証もない。『葉書』で提示された隠喩にしたがえば「不可能なもの」とはむしろ、ソクラテスからプラトンへ、プラトンからフロイトへ、さらにはフロイトから自分へと配達されるとき、どこかで行方不明になってしまった手紙のようなものだ。各々が触れる「不可能なもの」はまったく異なる手紙でもありうる。(傍線は、原文傍点、以下同)


「不可能なもの」は個々人で異なるとのこと。
「真理」は失効してしまっているのか。
個人主義的ではある。
それぞれの信じる神は、皆違う、という点で、リアリティがある。

ある手紙が行方不明に、言い換えればシニフィエなきシニフィアンとなるのは、郵便制度が全体として不完全だからなのではない。より細部において一回一回のシニフィアン送付の脆弱さが、手紙を行方不明にする。行方不明の手紙は、その可能性(*表記不能-venir)において無数にあることだろう。そしてその送付の脆弱さこそが、「エクリチュール」と呼ばれるものにほかならない。デリダ的脱構築にはもはや、断絶し複数化したシニフィアンのネットワークの切れ端しか見えないのである。「不可能なもの」はその切れ端で現れる。象徴界の全体を見渡すことは、そもそもはじめからできない。


このあたりの記述は、社会的現実を言語化したものとしてよく分かるし、表現の仕方がうまい。

以上、三つの引用は本書の第2章より。
東は「不可能なもの」という言葉をいろいろな局面で使っている。
第2章の上の部分では、社会的・文化的なところで特に語っている。
  
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