高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』 

さようなら、ギャングたち さようなら、ギャングたち
高橋 源一郎 (1997/04)
講談社
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昔、運動家である美人さんの女性に、先生を待つ授業前、話しかけられたことを思い出す。
「革命家って、モテていたらしいよ、昔はね」
「ええ。革命家って、モテていたんですか。なんか、モテない人の典型みたい、モテない人こそがなるのが革命家だと思っていたけれども」
「だよね」
少なくともぼくの同級生の革命家たちは、モテなさそうだった。
モテるかモテないかは、革命運動をするにあたってのモチベーションにいくらか影響しそう。
 


 
革命家は、昔、モテていた。
その話を聞いたとき、昔というのは、なんとなく、戦前のことではないかと想像した。
国家の戦争に対して、抵抗する革命運動の闘士なんて、モテそうだ。
でもでも。
『さようなら、ギャングたち』を読むと、もうちょっと最近でも、革命家はモテていたのかなと感じさせられた。
自分の視点というものは、歴史的に形成されたものだ。
今の時点での概念を、過去や、地理的に離れた場所に適用してしまう愚は、なかなか避けられない。
生きたことのない時代というものを、逆行して想像するとき、誤解は大いに侵入してしまう。
『さようなら、ギャングたち』はシュールな小説であった。
言葉少なに特殊なことを語る。
表現がひねってある。
人がたくさん死ぬ。
詩的である。
悪者であることへの憧れがある。
インテリである。
悲しみを表している。
ポップである。
自己表現を言葉で行うことへのためらいがある。
などといった特徴があるみたい。
また、物語がブツブツ切れている。
けれども、骨格としてはやはり、大きな物語の支えがある。
ダンテを救う、ベアトリーチェが存在している。
チェッチェ。
革命家、モテモテじゃんか。
モテないでこそ、革命家ではないのか。
やはり、非モテでこそイケているのではないのか。
と思ったり、思わなかったりした。
まあ、どんな価値観がモテるか、モテないかなんて、場所なり時代なりで、全然違ってくるものなのだろう。
 
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