デリダ『精神について―ハイデッガーと問い』(2) 

精神について―ハイデッガーと問い 精神について―ハイデッガーと問い
ジャック・デリダ、港道 隆 他 (1990/05)
人文書院
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デリダ『精神について―ハイデッガーと問い』を読んでいく。
「○」は本書に書いてあること、「・」で始まる段落は本書から離れた松平の考えである。
 


・精神
「精神」という言葉を話題にするときは、次のことを念頭に置いておきたい。
人間や生き物は、死ぬと動かなくなる。
死ぬと、物質になってしまう。
つまり、「物質としての肉体」と、「それを動かす何か」の二つから、生き物は成立している。
肉体を動かす「何か」、それを「精神」と名づけうる。

また、人間は死ぬと動かなくなるが、眠るときも、あまり動かない。
起きている人間を動かすものを、「意識」と名づけうる。

そして、「精神」「意識」に加えて、「魂」「思惟」なんかも、同じ系列の語。
「精神」「意識」「魂」「思惟」はこのように、人間を外的に観察することで、地域と時代を超えて普遍的に得られる概念である。

物質としての身体(存在)と、「精神」。
この二つのものから生き物はなる。
植物などはちょっと保留になりそうだが、あらゆる生き物においてこのことはいえる。
一方で、動物と人間の間に境界線を引き、二つに分けるとする。
この場合、「精神」はどのようにとらえられうるのか。
動物も人間も、同じように「精神」を有している。
西洋では、そのように、考えない場合もあるみたい。
訳語の問題も大きいだろうが。
アジア・アフリカ・ラテンアメリカ等の精神観と、文化人類学的に比較し調査してみると、面白そうですね。

○ハイデガーにおける精神の諸問題
デカルトは、「意識」と「存在」(身体、神)を対比させた。
〈意識/存在〉
ハイデガーは、存在に対比させる言葉として、意識・精神という言葉を退け、現存在という言葉を採用する。
〈現存在/存在〉
しかし、ハイデガーも、ナチス関与の疑わしい時期では、「精神」という言葉を使う。
『総長就任講演』『形而上学入門』『ニーチェ』などの時期。
たとえば『形而上学とは何か』における「精神」を説明した部分は、デリダによれば次のよう。
p.104「彼がそこから取り出すくだりは、大学の悪質な統一、つまり名前だけの統一しかない技術的ないしは行政的な統一と、真に精神的な統一とを区別している。後者の統一だけが真の統一である。精神に固有なるものとは、まさしく統一することだからだ。」
「精神」は、「一」へと向かう働きを持つようである。
これは、ヘーゲル的な「精神」観、歴史観だといえそう。

○ハイデガーにおける動物
ハイデガー『形而上学の根本諸概念』には次のようにある。
石は無世界的であり、動物は世界に関して貧困であり、人間は世界形成的である、と。
世界とは精神的なものである。
動物は精神を持っていない、とのこと。
現存在は精神的歴史的であり、世界は歴史的精神的である。
動物は世界を持ちうるが、しかし、剥奪されている。
「動物は存在者に対してより少ない関係を、もっと制限された接近路をもっているのではなくして、別の関係をもっているのだ。」
P.84「というわけで、名前の抹消、ここでは、岩そのものを、そのものとして、その存在において接近できるものとして名指す可能性を指し示すのであろう岩の名前の抹消である。」
動物の特徴は、「命名する能力のなさ」「問うこと」「テクネー」を持たぬことにある。

・動物と人間を分けるものとして、「言葉」の問題が大きいようだ。

動物と人間に関する項は、次のような言葉で終わっている。
「以上が、ハイデッガーがはっきり強調している(石と人間との間の動物)ように、その中間的性格において、弁証法的とは言わぬにしても、いぜん徹底して目的論的で伝統的なものにとどまっている一テーゼなのである。」
石→動物→人間
こういう回路は、いくらか弁証法的にみえるし、目的論的であると。
さすがデリダ
ぼくも同じこと考えてました。

次のこともチェックしておきたい。
p.158「悪はその由来を精神そのもののなかにもっているのだ。それは精神から生まれるが、精確には、形而上学的-プラトン的Geistigkeit〔精神性〕ならぬある精神からである。悪は、一般に精神に対立させられる物質や物質的感性的なものの側にはない。悪は精神的である。それはGeistでもある。ここからこの、一つの精神を他方の邪悪な亡霊(ルビ・ファントム)にする別の内的二重性が来る。」
物質は、「悪」的なものを持たない。
物質・動物よりも、人間こそが「悪」と関わりうる。
ハイデガーは次のようなこともいっているらしい。
精神には悪が宿る。
動物は精神がないため、悪意を持たない。
まったくだ。
ワンワンニャンニャンは、悪には染まらないのだ。
うん、正しい。

・ちょっと脱線。
・キリスト教における動物と人間の差異。
旧約聖書「創世記」では。
ヤハウェは地上に降りて土を練り、それに魂を宿らせアダムを生み出した。
「土」プラス「魂」でアダムができていることに注意しておきたい。
イヴとアダムは「善悪の知識の木の実」を食べることで、自分達が裸であると知り、さらに、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少する結果を招き、神により「エデンの園」を追放された。
これがキリスト教での原罪とされる。
仮に、「エデンの園」にいたころの人間を、「動物」の比喩であるとみなす。
智恵の実を食べることで次のように変わった。
性欲や欲望が解放され、収拾がつかなくなる。
これに対応した形で、善悪の知識と理性が必要となった。
仕事をしなければならなくなり、テクネーを身につけた。
それらの原罪を負うことで人間になる。
というわけなのでしょうか。
この件については、もっと参考文献を知りたいです。
「智恵の実」を食べることで頭がよくなったのに、そのことで神様に叱られなきゃいけないのか。
イマイチ分からないです。
「善悪の知識の木の実」を食べることで、「悪」の味を知ったのでしょうか。
確かに「悪」は、おいしい気がする。

○ハイデガーの「精神」はプラトン的な形而上学、キリスト教的なものと異なる。
ハイデガーの『総長就任講演』では、Geistとは炎〔flamme〕である、となし、トラークルとの対話でも、これを主張している。
この件については、ヘルダーリンや、ニーチェ、パルメニデスの「一つ」や、何かと関係があるのだろうか?

・「火」が精神の比喩として使われることは、どうしてか。
たとえば、「火」は物質ではなく、定型を持たない。
全体として一つのものでありながら、常に生成変化しているエネルギーである。
「火は火である」
言語として同一のものでありながら、物の表象としては同一のものとして維持しえない。
同一律の点で疑わしい、「往来」の現象である。
ヘラクレイトスと関係ありか?

ハイデガーは、キリスト教を退けるが、「約束」「頽落」「呪い」「精神的な悪」などといった言葉について述べるとき、結局はキリスト教的である、とデリダは指摘している。

また、訳者は訳注で次のようにまとめている。
p.233「しかし、デリダは、本書で執拗に問題にし続けているように、ハイデッガーが目指すロゴスの原-根源的な「集摂」、〈一〉への集約を、ハイデッガーの「夕暮れの国=西洋」の最終的な優位を、「夕暮れ」から「朝よりももっと早い朝」に連なる円環の不可能性を翻訳の問いとともに脱構築することによって、全く異なる思惟を開いてきたし、また開きつつある。」
なるほど。
ポストモダンは、大きな物語を破壊するのであろう。

今後の課題
・存在と現存在、世界と時間とテクネー。
ハイデガーにおけるこれらの相互関係はどうなっているのか、勉強していきたい。
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