HOWS「漫画版『神聖喜劇』を読む・第2回」 

神聖喜劇 (第1巻) 神聖喜劇 (第1巻)
大西 巨人、のぞゑ のぶひさ 他 (2006/05)
幻冬舎
この商品の詳細を見る

本郷文化フォーラム「HOWS」の「漫画版『神聖喜劇』を読む・第2回」という企画を聴講してきた。
2007年7月14日土曜日のことである。
コーディネーターは二松学舎大学教員の山口直孝先生。
ゲストは文芸評論家の糸圭秀実さんである。






このフォーラムでは、糸圭さんによる漫画版『神聖喜劇』評と、『神聖喜劇』を取り巻く現代社会への、鋭い批判を聞くことができた。
会の前半は、漫画版『神聖喜劇』のはらむ諸問題と、映画版『神聖喜劇』制作にあたっての注意点。
後半は、漫画版『神聖喜劇』の話題を超え、小説『神聖喜劇』についての話もなされる。
『神聖喜劇』から汲み取ることのできる、現代における運動や、大学運営への警句を伺うことができた。

漫画は漫画として、小説とは別のものとして論じなければいけない、とおっしゃる糸圭さん。
漫画版『神聖喜劇』は、漫画としてどうなのかという疑義が、まず提示された。
三島由紀夫によれば、漫画は、白戸三平的なものと、赤塚不二夫的なものの二種に分けられるらしい。
そして、漫画版『神聖喜劇』は、劇画風であり、どうも白戸三平的であると糸圭さんはおっしゃる。
白戸三平の名作、『カムイ伝』。
社会的弱者であるカムイが、社会的強者を相手に独り、闘いを挑む、という奴ね。
糸圭さんご自身は赤塚不二夫派であるとのこと。
漫画版『神聖喜劇』は赤塚不二夫風ではない。
『神聖喜劇』のタイトルにある、「喜劇」の要素が、漫画版では希薄だという指摘であるよう。

また、文学は上、漫画は下、という発想が、漫画版『神聖喜劇』なり、それを取り巻く周囲の状況に潜在してはいないか。
文学はハイカルチャーで、映画や漫画はその下にある、という考え方。
糸圭さんによれば、一九一〇年代から二〇年代には、文学より映画の方が強くなっていたのではないかということ。
そして、六〇年代には文学と漫画が並び、現在では文学より漫画の方がずっと強くなっている。
それなのに、いまだ文学は上、漫画は下という教養主義的なアイディアで、『神聖喜劇』と向き合ってもしょうがない。
また、糸圭さんは、野間宏『真空地帯』と大西巨人『神聖喜劇』の違いについても注意を促す。
漫画版『神聖喜劇』の制作において、大西巨人の『神聖喜劇』が、戦後文学への批判の中から、どう出てきたものなのか、踏まえられていない。
漫画版『神聖喜劇』は漫画版『真空地帯』でも良かったのではないかという疑念である。

会の後半は、小説『神聖喜劇』と現代社会の問題について。
長く運動に携わってきた糸圭さんによる、驚きエピソードが多く開陳され、聞いている私としても思わず力が入った。
小説『神聖喜劇』は新左翼運動にどう受容されたのかという話から、憲法九条改正への反対運動をどう評価するのか。
今、運動の現場や、大学の自治はどうなっているのかということ。
この項は、よほどその道に携わり、勉強しているものでないと、うまく紹介できるものでもありませんね。
私の問題意識では、糸圭さんのお話をお聞きしていて、次のようなことが思い浮かんだ。
小説『神聖喜劇』には、党がない時代における、党の問題がある。
運動体というものは、しばしば、上部と下部からなる、「党」を形成してしまいがちだ。
上部のものは下部のものをおもちゃにする。
「党」的なものは、非営利の運動体のみならず、営利組織にも、大学にもまた、作られてしまう。
非営利の運動体も、大学も、その中心に、しばしば、カノン的な文学作品や、古典的な知識人像を据える。
しかし、古典的な知識人イメージは、大衆へと影響力を発揮するような結果を招きえない時代にある。
大学では、なんのために勉強しているのか。
まったく意味をなさないことが行なわれている。
大学は、就職予備校として、役割自体は終わっているが、しかし、乗り越えは不可能である。
知識人を中心とした、運動や革命のモデルがすでに失効しているとして、それでは、いかにして今後の運動や、革命は可能なのか……?
人類の「知」というものを建設していくことは、できないものなのか。

法政大学における運動体の、ここ8年程の間の瓦解はとてもひどいものだった。
筆舌尽くしがたい。
それとも、昔はもっとひどかったのかな。
そして、それらのことを気にかけて続けていた知識人は、糸圭さん以外に、いないのじゃないかと疑われる。
糸圭さんは、党的なものへと収束させる力と抗いつつ、孤高の運動を続けていらっしゃる。
正義と善意とユーモアの志士であると、改めて感じさせられた会合であった。
以前に比べて、新左翼によるテロルの危険性も薄くなった今である。
闇に葬られた暗部を明らかにした新左翼運動史を読みたいところでもある。

『神聖喜劇』と埴谷雄高『死霊』は左翼の二大カノンとして知られる。
『神聖喜劇』の観点から見れば、『死霊』は批判されるべきところの多い作品かもしれないが、ここはあえて、『死霊』の漫画化と映画化も、誰か行なって欲しいものだ。

このような有益な会を多く開いている本郷文化フォーラム「HOWS」に、皆さんもぜひご注目されたい。
20070714172.jpg
 
スポンサーサイト
コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

松平耕一

Author:松平耕一
○twitter登録名:matudaira
○ツイッターまとめ:http://twilog.org/matudaira
○Facebook登録名:松平耕一

☆文芸空間社企画
◎批評放送
・批評放送は松平のプロデュースする動画配信企画です。ツイキャス http://twitcasting.tv/matudaira 、youtubeなどで配信されます
批評放送@USTREAM

○松平耕一・文芸空間社・批評放送へのカンパ振り込み先は
・三菱東京UFJ銀行の吉祥寺支店普通口座1896022 マツダイラ コウイチ 宛になります

管理者ページ

FC2カウンター
ツイッター@matudaira
カレンダー
04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
全記事(数)表示
全タイトルを表示
カテゴリー


  1. 無料アクセス解析
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。